一昨日、お客様からお電話を頂いた。
「“旅立ちの日に”の楽譜が欲しいのだけど手に入りますか?」
早速コンピューターで検索すると今月号の月刊誌「月刊ピアノ2006③」と「月刊エレクトーン2006③」に収録されている。
お客様に合唱用は在庫がないがピアノ譜であれば有るとご連絡を差し上げたら、すぐに買いに来られた。
この曲は、全国の学校の6割以上が卒業式で歌っているというのだ。
私は、そんな有名な曲を知らない。そこで興味が沸いたのでインターネットで調べてみた。
するとどうだろう、この曲には、素晴らしい感度の物語が有った。
(詳細は、フジテレビがドキュメンタリー番組として制作していたのでそちらをご覧下さい)
“こちらフジテレビ”から引用させていただくと、この曲の完成には次のようなストーリーがあった。
この曲の生みの親は、今から14年前の当時秩父市立影森中学校の校長先生だった小嶋登先生と、当時音楽の先生だった坂本浩美先生。クラスのまとまりもなく、荒れる学校を建て直そうと思い立った小嶋校長は「歌声の響く学校」にすべく、みんなで合唱をする機会を増やすことにした。初めはなかなか成果が表れなかったが、「歌には人の心を変えていく大きな力がある」と信じていた小嶋校長と坂本先生は粘り強く努力を続けたのだ。やがて生徒たちの心にも変化が芽生え、みんなで声を合わせて歌う楽しさから、いつしか学校も明るい雰囲気に変わっていったのだった。小嶋校長が目指した「歌声の響く学校」になったとき、その集大成として、小嶋校長が歌詞を作り、音楽の坂本先生がメロディーをつけて生まれたのが「旅立ちの日に」という曲であった。完成した曲は92年の3年生を送る会で、小嶋校長と先生たちによって、影森中学校の生徒の前で初めて歌われたのだ。実はこの年、小嶋校長は定年を迎え、自分にとっての卒業式でもあったのだ。この日のためだけに作られた「旅立ちの日に」という曲は、先生から生徒へ、翌年も歌い継がれていった。そして他校の先生たちにもこの曲は評判となり、全国の学校に広がっていった。
歌詞の内容は
旅立ちの日に
小嶋 登:作詞 坂本浩美:作曲 松井孝夫:編曲白い光の中に 山なみは萌えて
遥かな空の果てまでも 君はとび立つ
限り無く青い空に 心ふるわせ
自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず
勇気を翼にこめて希望の風にのり
このひろい大空に夢をたくして懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあのとき
心かよったうれしさに 抱き合った日よ
みんなすぎたけれど 思いで強く抱いて
勇気を翼にこめて 希望の風にのり
この広い大空に夢をたくしていま別れのとき
飛び立とう未来信じて
弾む若い力信じて
このひろい
このひろいおおぞらにいま別れのとき
飛び立とう未来信じて
弾む若い力信じて
このひろい
このひろいおおぞらに
この曲の試聴は、→http://www.ongen.net/search_detail_track/track_id/tr0000108648/
13日は、次男の中学校卒業式。
果たして、この曲が聴けるのかな?
昨日、我が家の二男(中2)の通う、糸中の卒業式に参加しましてきました・・・・
糸中でも卒業生が「旅立ちの日に」を式次第の最後に合唱していました・・・・・
見事な「ハーモニー」と「旅立ちへ思い」のこもった合唱に、大感動でした・・・・
我が子を送り出すわけでもないのに、思わず「涙」した「建築家★兼業主夫」の私でした・・・・・
岡目八目と申しますね。私がやっている音楽活動も、実は学校というフィールドをさらに広げ、田川、筑豊という範囲で取り組んでいるのです。精神や目指すところは秩父の学校、校長先生、音楽の先生と一緒なのです。
秩父のケースは校長、音楽の専門家といい、信頼にたる好条件は十分そろっています。
翻って「さくらい英夫」はどうでしょう。何につけても、地盤看板かばんなし。これは選挙ばかりの話ではありません。
私が、まちづくり活動を本気でやっていくにしても、あまりにも私を取り巻く環境が脆弱。その環境作りからまずやらねばなりません。他人から本気にされる、ただトンピンお茶らけでやっているのではない、選挙目当てのパフォーマンスでない、そんなものをとっくに超えた、秩父の先生が学校を良くしたいという母校愛と責任感と同様の情熱的なものなんだということをどうしても田川郡市民に分かってもらいと思います。
それは、たった人口2300人の神津島を断腸の思いで出てきた慙愧の念を晴らすことでもあります。
私の音楽活動、ご当地歌作りは素人に毛の生えたようなものですが、専門の音楽家が手をつけようとしない分野です。ほとんど誰もやらないから意地でも私があえてやるのです。
編集長がお祝いしてくれたように、初めてマスコミが記事に値すると判断し新聞で紹介してくれました。
尺八コンサート、まほろばコンサート始め数々の公演を通じて、私の歌声を聞いてくださった方々はゆうに1万人を超えていますし、CDも1500枚ぐらい世に出ています。
そうして田川のイメージを明るいものにしていきたいと思っています。
ところで、昨日、川俣正コールマインプロジェクトの閉会に
行ってきました。10年かけて、造形物をつくり瞬時に壊してしまう、地元への愚痴も多少出ておりましたが、残すもアート、壊すもアートでしょうか。
このプロジェクトに私も関心がありましたが、10年間会場にも現場にも行ったことがありませんでした。ですから、初めて腰を上げたのですが、それがフィナーレだったとは。
そして、この結末が決して他人事に思えず、自分のやっているまちづくり活動も結局は、支持もされず朽ち果てるのかなと思います。
川俣氏も、自分のやった10年間は無駄でなかった、今後は
北海道で、自分のふるさとの近くの炭鉱でもう一度コーマインプロジェクトを立ち上げるのだと痛烈な皮肉とも言える一轍を田川に食らわしたような気がしましたね。
私は決して、神津島には戻りません。田川の土になるのが私のアートなのです。
ちょっとかっこつけすぎですが、何卒よろしくお願い申し上げます。結構本気です。
シンガーソングライター
さくらい英夫
次男が今日、卒業式でした。
やっぱり「旅立ちの日に」を全校生で合唱してました。
こちらは、練習が少なかったのか、見事なハーモニーとは行きませんが、この曲の生い立ちを知っているとつい感情がこみ上げてきました。
メロディーをインターネットで聞いて覚えていたので、一緒になって歌ってしまいました。
ご卒業おめでとうございます。
秩父の中学校で生まれた歌が全国的に広まっていく。先生たちも学校もそんな目的で生み出した楽曲でないのに、支持者が自然と増えていったのですね。
そんな話題が田川から発信できないか、いつもそんなことばかり考えています。
私が神津島にいた頃は、剣道の記事を剣道日本に投稿しては、島に稽古に来てくださいと呼びかけて、実際、年に何団体も来てくれました。そのたびに稽古の段取り、稽古後の交流会などお世話をさせていただいていました。
宴会ではもちろん島の歌や私のオリジナル曲を披露していましたね。島はいつしか観光の島になっていたので、ホスピタリティ、もてなす心が大切でしたね。
ところで、10年の区切りで終結した川俣正コールマインプロジェクトイン田川。結果的に特異なアーティストの特異な事業でしかなかったようで、少し残念な気がしています。
よそ者のよそ者による幻のプロジェクトだったのでしょうか。 川俣正氏、春風とともに去りぬ。
シンガーソングライター
さくらい英夫