母の闘病日誌(7)

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母の闘病日誌(6)の続き
肺癌の摘出手術は、右肺上部1/3を切除するものだった。
開胸手術は、体に負担がかかるということで、手術時間は長くかかるけれど、開胸より術後の回復が早く痛みも少なくてすむと言うことで内視鏡を使った手術をしていただくことになった。
脇腹に3箇所穴を開け、内視鏡の画像を頼りにメスを入れると言うのだ。
相当なテクニックが必要なのだろう。
午前10時ごろに手術室に入り、手術が終わったのは午後の4時になっていた。麻酔時間を入れ6時間の手術である。この間、集中力を途切れさせること無く執刀をしていたのかと思うと敬服する。
過去の手術に比べ、時間も長く、ただただ無事成功を祈るばかりであった。

N2医師から術後に経過説明があった。
全て巧く行ったと言うのだ。
摘出した癌を見るかと聞かれたので、どんな病巣なのか見せてもらうことにした。
驚いた!
空気の抜けた肺の中に、ゆで卵と同じ位の大きさでドス黒くて魚眼のようなう薄気味悪い物体が入っている。

これが癌なのか!

麻酔が覚めるのを待って母の病室に行った。
よっぽど痛いのだろう、「痛い痛い」と唸っている。
少しづつ意識が覚めてきた母は、
「脇から背中にかけて痛い。今からこんなに痛いのなら私は手術はせんでいい」
「・・・?」
全身麻酔で手術を行った為、手術のことは一切知らないのだ。
まだ混乱しているようだ。

次の日の朝、病室を訪ねると母は、
「こんなに痛いなら、とても手術に耐え切れん。先生に手術はせんでいいと言った」
と言うのだ。
「お母さん、なん言よっと。手術は、昨日、終わっとうよ。成功したんよ。」
「そんなことかね。私はてっきり今から手術するかと思った」
やっと飲み込めたようで安心したようだ。

術後の経過も良く、5日間で退院させると言う。
他の病院もそうなのだろうか?直ぐにリハビリが始まる。患者を甘やかさない。手術の明後日から、食事もトイレも自分でさせる。
早く回復させるためと血栓を防ぐためには、とにかく体を動かさなくてはならないそうだ。

痛い痛いと言いながらも自分でトイレに行っている。
「早く元気になりたかったら、食事もしっかり食べないといけませんよ」
看護士に言われたとおりに残さず食べているようだ。

予定通り術後、5日間で退院した。
そのまま、C病院に戻ることにした。
C病院に着くと、看護士のみなさんが、
「お帰りなさい。ようがんばったね。」
と温かく迎えてくれる。

「みなさん、よろしくお願いします。」

一通りの検査をし、母は病室へと引き取られていった。
その後、副院長に呼ばれ、手術の経過説明をした。

「大変な手術をされましたね。しばらく私のところでお預かりし、回復させましょうね。」

有り難いことである。

その後、ここC病院での健診と、B病院、D病院の定期健診を続けることになる。

D病院での検診の時だ。
呼吸器内科のH医師から、今後の癌再発防止の治療について説明があった。
薬による抗癌治療を勧められた。

しかし、私は、断った。
1年前の癌手術の後、はっきり因果関係は掴めないが、母が薬の副作用でパーキンソンが出たり、うつ病になったりしたことを伝えた。
癌とは、今後も付き合っていかなくてはならないだろう。しかし、元気を失い、精神的な病になったのでは、闘うことすら出来なくなる。

H先生は、理解してくれた。
「では、定期的に検査だけは続けていきましょう。再発するかどうかは、分かりませんからね。もし再発したらその時に対処の方法を選びましょうね。」
母もそれで納得してくれた。

その後も、癌とは長い付き合いになるのである。

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このブログ記事について

このページは、木村知弘が2005年12月14日 22:29に書いたブログ記事です。

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